忌明けとともに、こぼれた記憶に感謝

残していなければ、とっくに忘れていたいろんな記憶があって、それというのは忘れてもかまわないものだと思う。
そんな事実があったということを頭の隅に置いておけばいいのだと思う。
例えば、「失う」という言葉に対して、今の私の中でこれ以上ない強い意味を持つ「人の死」に直面しても、その人といたすべての時間を覚えていることと言うのは不可能だ。
じいちゃんは大正の男だ。尚且つ九州男児。いやいや、それが理由ではないけれど恐かった。
90過ぎとは思えぬ気迫で怒鳴られた事もある。
でも今、そんなこと私はどうでもいいのだ。
よくよく思い返せば、
「人は誰しも殺人を犯す可能性があるんですよ。」
という大学の刑法の先生の言葉を思い出したくらいだった。大袈裟でなく、不謹慎だけど、本当を書くとそれくらいに、精神的に介護というのは大変だったんだ。
ほんとに、今思えば嘘のように、遠い昔のことのようだ。
忘れてきている、のだろうか。
じいちゃんのことを?ではない、一緒にいた時間を、だと思うよ?

私はモノを捨てられない人だけに、忘れられる記憶は都合のいいものだとちょっと思う。
でも、じいちゃんのことを詳しく詳しくここに書き記したとしても、一緒にいた時間も、どんな人格だったかも、同じ記憶でしか残らないんだろう。
今ですら嫌だったことばかり、忘れていく自分がいる。
最後にありがとう、と言えるようにできているなら、ありがたくできてるね、私の頭。
ありがとう。
(1/11gree日記から本文転載)